東日本大震災・当時の園の様子

 久々のブログ更新となります。
園内はコロナウィルスやインフルエンザもなく、子どもたちの元気な声が毎日響いています。

 東日本大震災から12年。現在は震災を体験していない子どもたちの代になり、当時のことを知らない職員も増えました。アネックスもまだ出来ていませんでした。以前にもブログでお伝えしましたが、再び当時のことをここに記そうと思います。かなり長文になりますので、お時間がある時に見ていただければ幸いです。

 あの日、保育園はどんな状況だったのか…

地震が起きた時間(14時46分)はお昼寝の真っ最中でした。職員は大きな揺れに驚きながらも子どもたちの側につき、倒れてこないようロッカーや棚を必死に抑えました。あそこまでの規模とは夢にも思いませんでしたが、いつもの地震とは何か違う…そう感じていました。

大きな揺れがおさまり、寝ている子どもたちを起こしたり抱っこして園庭へと避難します。また大きな揺れが来るかもしれない…とにかくみんな必死でした。3月でまだ寒い時期、子どもも大人も着の身着のまま。”このままでは子どもたちが風邪をひいてしまう”。余震が続いていましたが揺れがおさまった隙に何人かの職員がすぐそばの保育室に入り、毛布や上着など寒さがしのげそうなものをかき集めてきて子どもたちに掛けました。

直後は情報が何も入ってこず、いつまでこうして外にいなければいけないのか分からずその場にいる全員が不安でいっぱいでした。園庭にいる間も何度も余震が起こり、怖くて泣き出す子もいます。子どもたちはとても頑張っていました。大人でも不安に押しつぶされそうな状況の中、職員の話しをよく聞いて対応策が決まるまで静かに待っていました。

しばらくして、東北地方で大きな地震が起こったこと、津波が発生していることなど少しずつ状況が分かってきて、園舎に入れるようになったのは地震発生から1時間後くらいだったでしょうか。それ以上にとても長く感じられた時間でした。

その日は町田市の園長会が行なわれており、各園園長不在の中での出来事でした。

 室内に入り子どもたちが午後のおやつを食べてようやく一息ついた頃、保護者のお迎えが始まりました。心配でいつもより早く来た方も多く、お互いの無事を喜び合う姿がそこかしこで見られます。この時電話がなかなか繋がらず、保護者から園への電話も園からの電話も繋がらない状況でした。

『連絡が取れない』…これが一番大変なことでした。

実は、震災後に保護者の知り合いの方がお迎えに来てくださったり、お迎えに来られていないお友だちのことを知った別の保護者の方が自分の家で預かると申し出て下さっていたのです。

当時は「緊急時引き渡しカード」がなかったため、電話が繋がらないと保護者に確認ができません。園としては確認ができない以上、お子さんを預けることができないため折角の申し出をお断りするしかありませんでした。あの時は、みんなが助け合おうとしていました。たくさんの善意を目の前にしながら、確認する術がなく歯がゆかったことを覚えています。その教訓から「緊急時引き渡しカード」や「FairCast‐子ども安全連絡網」などが整備されました(※FairCastはR4年3月末で終了。以降はキッズノートで同じ役割を引き継ぎます)。

 保護者の方も大変な状況の中、続々とお迎えに来られました。最後のお迎えは明け方の4時。都内から渋滞の中、会社の車で何時間もかけてのお迎えでした。

 震災以前から避難訓練は毎月行っていましたが、行う日時が決まっている”避難の流れ”を確認する訓練でした。実際に動けなければ意味がないということで、震災以降は抜き打ちの避難訓練も行うようになりました。行う日が決まっていない月は、子どもも職員もいつ訓練が行われるのか担当者しか知りません。時間も午前中だけでなく、夕方や18時以降などにも行い、職員体制が整っていない中でどう避難するか・判断するかを行っています。上手にできるかではなく、その時に出来なかったことを洗い出し、本当の災害が起きた時に活かすための避難訓練という位置づけに変わりました。

日頃の備えや意識がいざという時に大きな力になる。そう信じて、子どもたちの命を守れる施設であり続けられるよう今後も考え続けていきたいと思います。

最後になりますが、

震災で亡くなられた方々への哀悼の意を表すとともに、

更なる復興が進むことを祈念いたしております。